白洲正子を魅了した近江を歩く(全7回)

              
三井寺・月心寺・藤尾摩崖仏(逢坂越)

      第4回 2019年1月20日(日) 雨

    
     三井寺をスタートし、東海道(国道1号線)を歩いて逢坂山を越え、藤尾の摩崖仏へ

                    三井寺(長等山園城寺)

      
       三井寺 三重塔

      (前略)三井寺の正しい名称も、長等山園城寺(おんじょうじ)という。「元亨釈書」に
     よると、はじめ天智天皇が、この土地の豪族大友氏に命じて造らせたのを、
     天武天皇の時代に、大友王子(弘文天皇)の御子、与多王が完成した。
      大友氏は帰化民族の子孫で、大和の大伴氏とは家系を異にする。その名から
     推測すると、大友皇子を後援したのではあるまいか。園城の名が示すとおり、ここは
     皇子に所属した荘園で、そういうことから考えても、彼らとは密接な関係にあった
     らしい。
      壬申の乱で、不幸な最期をとげられた後、遺族が天武天皇に願って、菩提を
     弔うために三井寺を建立した。
                    
白洲正子  「近江山河抄」より

     
      境内図

      
       仁王門(重要文化財)  あいにくの雨

      
       釈迦堂(重要文化財) 仁王門をくぐってすぐ

      
       金堂(国宝)

         
        金堂の庇の下に屋根の一部が入っている閼伽井屋(あかいや)重要文化財

      金堂の向かって右側に、「閼伽井屋」と名づける建築があり、その中に泉が
     湧き出ている、これが「御井」の名の起こりである。それもただ湧いているのでは
     なく、ぶつぶつ音を立てて吹き出ており、太古の暗闇からひびいて来るような、
     陰にこもった呟きを聞いた時には、私は思わずそこに釘づけされてしまった。
                 
 白洲正子 「近江山河抄」より

      白洲さんが訪れた日も、今日と同じ雨だったらしい。私も閼伽井屋に
     耳をつけて音がしているか確かめてみた。「ぽこっ ぽこっ」と長閑な音が
     私には聞こえた。

         
          閼伽井屋の内部 水が湧き出ているのは左側(写真の外)

         
          三井の晩鐘

      

         
          弁慶の引き摺り鐘

      (伝説)奈良時代の作とされるこの梵鐘は、俵藤太秀郷が三上山の百足退治の
     お礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。
      その後、延暦寺との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺りあげて撞いてみると、
     「イノー イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺へ
     帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまった。
                      
三井寺パンフレットより
     
         
          一切経堂(重要文化財)の 回転式八角輪蔵

       
        観音堂

           
      三井寺観音堂から石段を下ると長等神社の赤い山門が見えてくる。
      ここを通り過ぎ、長等公園、赤十字病院の山際を歩いて京阪電車上栄町駅へ。

           
            京阪上栄町駅 

                   長安寺(関寺跡)牛塔

           
            左上栄町駅  長安寺牛塔へ 少し山を登る

               

      (前略)恵心僧都が関寺を再興した時、迦葉仏が白牛に化身して手伝い、
     工事の終了とともに死んだ、その牛を弔うために造ったともいわれている。
     もとはと言えば、材木の運搬に使役した牛を、信心ぶかい人が、迦葉仏の
     化身だと夢に見て、いいふらしたにすぎないが、藤原道長や頼道まで、拝みに
     来るという騒ぎであった。
      ただそれだけの話とはいえ、こんな美しい塔が建ったことは、それこそ
     嘘から出たまことといえるであろう。
      石塔寺の三重の塔にはまだ朝鮮の影響が見られたが、この宝塔は完全に
     和様化され、力強い中に暖かみが感じられる。淡海の国のもう一つの枕言葉を
     「岩走る」というのも、石に恵まれていたことの形容かも知れない。
                   
白洲正子 「近江山河抄」より

      

           
                  関蝉丸神社下社

      これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関     蝉丸

      お能の「蝉丸」では、延喜(醍醐天皇)第四の皇子蝉丸が、盲目で生まれたため、
     逢坂山に捨てられ、そこへ逆髪という狂人の姉宮が来合せて、互いの不幸をかこち
     合うという哀話である。(中略)
      作者の世阿弥は、『今昔物語』と『平家物語』に題材を得ているが、蝉丸を皇子に
     仕立てたのは『平家物語』で『今昔物語』では、未だ一介の琵琶法師にすぎない。
      (中略)『今昔物語』では、宇多天皇の皇子、敦実親王の雑色(下男)で、卑しい
     身分にも拘わらず、親王から琵琶の秘曲を授けられていた。(略)
      敦実親王は、近江に君臨した宇多源氏、佐々木一族の祖であったから、
     近江の住人は蝉丸に親しみを持ち、湖水と縁のある楽器の名手を誇りにも
     したであろう。
                     
白洲正子 「近江山河抄」より

      蝉丸神社はここ下社と、逢坂山峠との中間地点に上社、峠の高い場所に
     もう一か所の合計三か所ある。


       
          関蝉丸神社下社
      長安寺を過ぎて、JR琵琶湖線逢坂山トンネル入口を下に見ながら進むと
     関蝉丸神社下社がある。京阪電車の線路をまたぎ鳥居をくぐる。

       
        本殿 
      何年前になるだろう、その時も荒れているなあと思った記憶がある。でもまだ
     本殿の周りの回廊に入ることができた。今は… 廃墟に近い。
      
       
        本殿の檜皮葺屋根も崩れている。
      ツアー客の一人が「宇宙とか月とかに行くという大金持ちがいるけど、
     そんなことに使わないで文化財の修理に回してくれたらいいのに」と言う。
      いやいや、それはとばっちりというもので、神社が荒れていることとは無関係
     なんだけど、(私も含めて)おばちゃんの思考は、時にとんでもない方向に飛ぶ。
      と言いながら、この方に好感を持ってしまう私がいる。

          
           時雨灯篭 重要文化財  蝉丸型という

      蝉丸神社下社を後にして、道は少しづつ登りになっていく。

          
           左1号線 手前大津市街へ

       
        関蝉丸神社上社  立ち寄らず進む

       
        関蝉丸神社上社を過ぎた頃から、うなぎを焼く良い香りが漂ってくる。
       峠にある大谷はうなぎで有名。

       
        左1号線 横断歩道を渡って旧道(東海道)沿いにあるうなぎ屋さんで昼食

       
        横断歩道を渡った所 逢坂の関所跡の碑 
       関所がどこにあったか、未だはっきりしていないらしい。
 
          
        かねよ さん                     きんし丼 
      うなぎの蒲焼の上に分厚い卵焼きがドーンとのっている。初めは金糸卵をのせていたが、
     待ちきれないお客の要望に応えて、細く切っていた卵をボンボンぶつ切りにして丼にのせて
     だしたら、それが好評で名物となっていったという。


                      蝉丸神社

         
          かねよさんの近く 三つ目の蝉丸神社。この石段上。

        
      細長い尾根に建っている。                本殿 
       
                   瑞米山 月心寺

      峠を出発して下って行くと、名神高速道路、京阪電車、国道1号線が並んでおり、
     今も交通の要衝であることに変わりない。違うのは人の姿が見えないこと。
      月心寺はそんな場所の道路と山の間に張り付くように建っていた。

      月心寺は逢坂山にある単立寺院です。この地には古来より走井と呼ばれる
     山肌より湧き流れる名泉があり、京都へ往来を行う際の名所となっていました。
     平安期には街道を往来する都人に歌に詠まれており、枕草子にもその名が
     登場します。
      室町・鎌倉時代に入り、山肌から滝のように流れ落ちる走井の周囲には、山の
     傾斜に石組みを用いた石庭が相阿弥によって造られました。
      その後、走井の元井戸から引かれた横井戸を使って、江戸時代には幾つかの
     茶店の前に「走井」を刻まれた物が置かれるようになりました。浮世絵などで
     描かれる走井の井筒は、大部分が走井茶屋と呼ばれる茶店のものです。
      明治に入ると、東海道沿いに汽車が敷かれて、往来の人々もめっきり少なく
     なりました。そうして、大正時代に売りに出された走井餅の本舗を、日本画家
     橋本関雪氏が購入、出来るだけ往時のままで保存し別宅としました。
      画伯の死後に宗教法人とされ、関雪夫妻と橋本家の菩提寺となりました。
             
瑞米山月心寺 パンフレットから抜粋させていただきました。
     
       
         月心寺  

          
           玄関を入った所、走井の井筒 水が溢れている

          
        苔むした屋根の庵 小野小町百歳像が祀っている。元関寺にあったという。

      小野小町は晩年、山科の随心院のあたりに住んでいたことが、ほぼ明らかに
     なっており、逢坂山にいたという確証はない。まして、乞食におちぶれるほど
     貧乏でもなかった。山科と逢坂山は目と鼻の間で、その辺を根城にした
     猿女の君の末裔が、あたかも小町がのりうつったように物語ったのが、
     聞く人の共感を呼んだのであろう。(中略)
      走り井の月心寺には、百歳の小町の像といわれるものが祀ってあるが、
     にたりと笑った表情には、小町に扮した、というより、小町に化けてしまった
     老女の、妖しい雰囲気がただよっている。
                 
白洲正子 「近江山河抄」より

      小町像を見せていただいたが、ちょっと怖い。

       
        小町像の祀っている庵から庭園を見下ろす

       
        以上4枚の写真は月心寺ではなく元別宅であったところ。
       その隣、この塀の左側が寺。

       
        月心寺本堂  橋本関雪夫妻 橋本家の菩提寺

          

      月心寺は通常公開していない。見学は10名以上からで、事前に申し込みが
     必要。

                 寂光寺の摩崖仏

       追分という所は、大谷の少し手前にあり、左手の旧道を入ると、まもなく
     藤尾の集落が見えて来る。ここの寂光寺という寺に石仏があることを、
     私は前から聞いて知っていた。が、拝観するのが難しいということで、
     伝手を求めて行ったのは、つい最近のことである。
      お経が上げられ、正面の御簾がまかれると、すばらしい仏像が現れた。
     大きな花崗岩の自然石に、阿弥陀仏を中心にして、十五、六体も彫ってあり、
     思ったよりずっとどっしりした石仏である。延応二年(1240)の銘が入っている
     とかで、厚彫りの堂々とした体躯は、藤原時代の手法を充分に残している。
      お堂の裏手へ回ってみると、この石仏は、石を切り取って造ったものでは
     なく、山に根をはった巨巌に彫刻され、その彫刻した部分だけがお堂の中に
     入っている。お堂の外には、峨峨たる岩根が露出しており、お堂がその上に
     のっかっている恰好だ。(中略)
      私はひたすらその美しさに目を奪われ、歴史の奥の深さに心を打たれた。
     阿弥陀仏らしく、西を向いて立っているのも、折からの夕日に照り映えて、
     思わず手を合わせたくなるような光景であった。
                    
白洲正子 「近江山河抄」より

       
       現在でも見学は事前に申し込みが必要。

    
      摩崖仏   絵葉書から

       
        お堂の裏手 山に根を張った巨巌にお堂がかぶさっている。

      あいにくの雨だったが、月心寺と寂光寺の摩崖仏は、個人では見学ができない
     ところであり、貴重な体験をさせていただいた。
      翌日から咳が出て、インフルエンザA型と診断され、1週間の外出禁止。
     新薬のお蔭でいたって元気、もう一度旅を楽しむようにこのページを作成した。


                     次回は  長命寺・日牟禮八幡宮・石山寺


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