白洲正子を魅了した近江を歩く(全7回)

         
長命寺・日牟禮八幡宮・(水郷・奥津島神社)・石山寺

      第5回 2019年2月10日(日)  18日(水郷・奥津島神社)

      
        近江八幡市 冬の水郷風景(葦の刈り取り)  撮影2月18日

      近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるで
     あろう。(中略)
      近江八幡のはずれに日牟禮(ひむれ)八幡宮が建っている。
     その山の麓を東へ廻っていくと、やがて葦が一面に生えた入江が現れる。歌枕で
     有名な「津田の細江」で、その向こうに長命寺につらなる山並みが見渡され、
     葦の間に白鷺が群れている景色は、桃山時代の障壁画を見るように美しい。
      最近は干拓がすすんで、当時の趣はいく分失われたが、それでも水郷の
     気分は残っており、近江だけでなく、日本の中でもこんなきめの細かい景色は
     珍しいと思う

                   
白洲正子 「近江山河抄」より

      
       長命寺周辺地図  近江八幡市観光物産協会 てくてくMAPより

         
          水郷めぐり乗船場 (営業は4月から11月) 今は人影もなく

         
          刈り取りをした葦。近くの集落で、葦ぶき屋根の一部を修理していた。
         (屋根に茅ではなく葦を使っている。)

         
          渡合橋の上から「津田の細江」 半島のように見えるのは長命寺山

      前略)長命寺の裏山を、長命寺山とも金亀山とも呼ぶが、それに隣り合って、
     あきらかに神体山とおぼしき峰がつづいており、それらの総称を「奥島山
おきつしまやま
     という。現在は半島のような形で湖水の中につき出ているが、まわりが干拓される
     までは、入江にかかる橋で陸地とつながり、文字どおりの奥島山であった。

                 
      白洲正子 「近江山河抄」より


                            
 長命寺

         
      長命寺参道   石段を上る

           
            石段の両側に宿坊の跡らしきものが 

         
       お不動さん                    あと少し 本堂が見えて来た

        
          到着

      寺伝によると、長命寺は、景行天皇の御代に、武内宿禰がここに来て、柳の古木に
     長寿を祈ったのがはじまりである。その後、聖徳太子が諸国巡遊の途上、この山に
     立ちより、柳の木に観世音菩薩を感得した。その時、白髪の老翁が現れて、その
     霊木で観音の像を彫ることを勧めたので、寺を造って十一面千手観音を祀り、
     武内宿禰に因んで「長命寺」と名づけた。(中略)
      寺の由来はどこでも大体似たようなものだが、ここで気がつくのは
     武内宿禰と、おそらくその化身である白髪の翁と、同じく長命を象徴する
     柳が欠かせない。(中略)古代信仰の神山(奥島山)に、柳の神木があった
     ことは確かである。近江は神功皇后の故郷であるから、武内宿禰と結びついた
     のは自然だし、オキナガとか、オキナガタラシという名称も、長寿と関係が
     ありそうな気がする。山内には大きな磐座がいくつもあり、(略)仏教以前からの
     霊地であったことを語っている。

                 
   白洲正子「近江山河抄」より
     
    

      神功皇后とは 
      記紀に伝えられる仲哀天皇の皇后で、名は気長足姫尊(オキナガタラシヒメ)。
      仲哀天皇の急死後、懐妊のまま武内宿禰とともに朝鮮半島に遠征し、
     新羅を征し、百済・高句麗を帰服させた。
      帰国後に応神天皇を出産したといわれる。

        
         雪が降ったり晴れ間がでたりの寒い日。屋根の雪が美しい。

                  
                   三重塔

          
           本堂の裏 磐座 絶妙のバランス

      磐座とは、日本に古くからある自然崇拝(アニミズム)であり、神事において神を
     神体である磐座から降臨させ、その依り代と神威をもって祭祀の中心とした。
      時代とともに、常に神がいる神殿が常設されるにしたがって、信仰の対象は
     神社そのものに移っていった。
      元々は、古神道からの信仰の場所に社を建立している場合がほとんどなので、
     境内に依り代として注連縄が飾られた神木や、霊石がそのまま存在する場合が
     多い。

               ウキペディアから抜粋させていただきました。

          
           長命寺にも太郎坊が存在する。この鳥居の先。

       
        太郎坊  雪が降ってくる

       
        足元に気を付けて下りましょう。

      
       太郎坊から 降りしきる雪に霞む三上山と右端に見える水茎の丘
      白洲正子さんが、「近江のなかでも、一番空が広いのはここかもしれない」と
     いったのは、この辺りだろうか。

      
       三上山 手前は琵琶湖


                  大島・奥津島(おきつしま)神社

      
       渡合橋 この橋を渡ってまっすぐ行くと奥津島神社のある島町

      沖の島へ私が行きたかった理由は、それだけではない。読者は既に気がつかれた
     と思うが、沖の島とか奥津島というのは、九州の宗像神社の別名である。正確には、
     玄界灘にある「沖の島」と、大島の「中津宮」と、内陸の田島に建っている「辺津宮」で、
     陸地でいえば、奥宮、里宮、田宮に相当する。(中略)
      祭神は、天照大神が生んだ三人の女神で、神功皇后の征韓の際にも現れて、航海を
     助けたといわれる。神功皇后の縁の深い近江に、同じ地名が見出されるのは、
     偶然ではあるまい。今は祭神もわからなくなっているが、かつては近江の沖の島にも、
     航海をまもる女神が祀られていたであろう。(中略)
      長命寺の近く、奥島山の麓には、延喜式内社があって、「大島 奥津島神社」というが、
     宗像神社でいえば、大島の中津宮に相当する。沖の島と、奥津島神社と、それに竹生島
     を入れると、三つ揃って申し分ないが、それなら一番遠くにある竹生島を、「沖の島」に
     見立てなかった筈はない。どう考えても、これはおかしい。私が思うに、竹生島は別の
     文化圏に属し、ここには辺津宮に当たる所が、別に存在したのではないか。
                   
白洲正子「近江山河抄」より

     
          
           杉の大木が茂っている場所に奥津島神社が建っている

      

      もう日は暮れかかっていたが、私は帰りがけに、その「大島 奥津島神社」に
     よってみた。夕暮れの境内は閑散としていたが、辺鄙な所には珍しく立派な社で
     ある。境内を清めているおじさんがいたので、尋ねてみると宮司さんだった。
      沖の島からの帰りだというと、自分もその島の出身だといって、いろいろ話して
     下さる。(中略)
      この宮司さんなら、私の疑問をといてくださるに違いない。そう思って、尋ねてみると
     案の定、的確な返事が返ってきた。ただし、これは自分の私見です、と断って、
     南に見える近江八幡の日牟禮神社が、その辺津宮に当たるという。私は今まで気が
     つかなかったが、そういわれてみると、思い当たる節がないでもない。
      八幡山は俗に「宮山」と呼ばれ、地図でみると、沖の島と、奥島山の直線状にある。
     度々いうように、古代人のそういう設定は、極めて正確なのである。そのうち二つは
     「島」であるが、宮山だけは陸地にあり、完全に田宮の性格を備えている。
                  
白洲正子「近江山河抄」より

       宗像神社の沖の島(近江の沖の島)、大島の中津宮(近江の大島 奥津島神社)
     内陸の田島の辺津宮(近江の日牟禮八幡宮)、白洲正子さんの知識と教養と行動力に
     よって推理していく過程に引き込まれてしまう。

                  日牟禮(ひむれ)八幡宮

       

      日牟禮の語源はわからないが、記紀には、応神天皇が淡海の国に幸した時、
     和邇
(わに)の比布礼使王(ひふれのおみ)の女、宮主の矢河枝比売(やかわえひめ)を召して、
     菟道稚郎子
(うじのわけいらつめ)を生んだとある。そのヒフレから出たともいわれ、
     現に日牟禮神社には、矢河枝比売も合祀されている。
                    
白洲正子「近江山河抄」より

     
       
        本殿

       
        本殿の裏山の岩 これも磐座か

       
        日牟禮八幡宮の二大火祭りの内、八幡まつりの火祭りに使われる松明

        
     日牟禮八幡宮の近く 八幡掘り  映画 忠臣蔵の撮影が行われていた


                        石山寺

      
       石山寺パンフレットより

      そう言えば、石山寺を建てたのも良弁であった。はじめは石山院と呼ばれ、
     材木を切り出して、瀬田川経由で奈良へ運ぶための中継地で、良弁は「造東大寺別当」
     に任ぜられた。
      「石山寺縁起」によると、大仏を荘厳するのに多量の金を必要としたが、それを
     調達するため、天皇は良弁を吉野の金峰山に派遣した。ある夜の夢に、蔵王権現が
     現れて、近江の瀬田郡に霊地がある。そこで祈念すれば、必ず事は成就すると
     告げたので、良弁は教えのまま瀬田へ向かった。
      そこで比良明神の化身である老翁と出会い、石山が霊地であることを知ったので
     念持仏の如意輪観音を石山に祀り、庵室を建てて祈っていると、間もなく陸奥国で
     金が発見された。念願を果たした良弁が、観音を持ち帰ろうとすると、岩にくっついて
     離れない。で、寺を建てて本尊としたのが、石山寺のはじまりであるという。
                  
白洲正子「かくれ里」より

          
           東大門

         
      東大門  仁王像

        
          石畳の道に西日が射して

        
     大津ひかるくん 

      
       天然記念物 硅灰石と多宝塔

        
         くぐり岩 大理石でできている

       
        多宝塔

       
        本堂内源氏の間は紫式部が「源氏物語」を書いたところと伝えられている。
       紫式部像と光堂。

       
        明かりが灯る本堂

        
     本堂真下にある天智天皇の石切り場跡
      
      近年の調査でここから切り出された石は、天智天皇によって建立された奈良の
     川原寺の中金堂の礎石に利用されていることがわかった。瀬田川から淀川に下り
     大和川を遡って飛鳥へ運ばれた。

              
     境内の奥まった場所 八大龍王社 
     空気がひんやりして一人では気味が悪く入ってこられない感じ。

                   
                    大木と龍穴の池

      長命寺では、思いがけず降りしきる雪の景色を楽しめた。

      ツアーでは長命寺と日牟禮八幡宮、石山寺の三か所しか行けなかったので、
     白洲正子さんが「近江の中で一番美しい」といった水郷の景色を後日撮りに出かけた。
      冬枯れの季節でもあり、水郷の景色はそれほど美しくはないが、雰囲気だけでも
     と思った。それと「大島 奥津島神社」はどうしても行ってみたかった。
      

                 次回は、葛籠尾崎、菅浦神社、四十八体石仏、白髭神社


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