東海道脇往還 矢橋道 前編

                      滋賀県草津市

            野洲市さざなみスポーツクラブ ウオーキングサークル 参加
      2012年9月20日

    
      矢橋道の説明版

       

      東海道脇往還 矢橋道は、草津宿の外れ旧矢倉村(草津市)の姥が餅屋角が起点に
     なっている。
      姥が餅屋は別の場所に移転し、現在は瓢箪屋になっているが、そこには矢橋道の
     道標が今も残っている。
      陸路にて瀬田へ回れば3里(約12km)、矢橋から舟で大津(石場のあたり)に
     渡れば50町5.5km。
      ”” 瀬田へ回れば3里の回り ござれ矢橋の舟に乗ろ ”” と矢橋道は
     賑わったようだ。陸路より、湖上を舟で行くのは早くて楽だったが、比叡おろし(突風)が
     吹いて危険も多かったことから
      「武士(もののふ)の やばせの舟は 速けれど 急がばまわれ 瀬田の長橋(唐橋)」
     (室町時代の連歌師 宗長)  と歌われ、そこから 急がば回れ という
     ことわざが生まれたと言われている。

      草津ボランティアガイドの嶋口さんの案内で、周辺の神社などを参拝しながら
     矢橋道〜矢橋港に向かい、船に乗って大津港を目指す。

       
     JR南草津駅                    新宮神社

       
   新宮神社の門、膳所城北の水門を移築したもの。 門の瓦、膳所城主本多家の家紋。

       
     野路の一里塚  現在は公園になっている

    
     広重が描いた姥が餅屋 

          
      姥が餅屋は移転、現在は瓢箪屋さん 右やはせ道の道標が今も残っている

       
     瓢泉堂さんの内部               

         
          瓢泉堂さんの前、右やはせ道の道標。左の真っ直ぐな道は東海道。

         
     矢橋道、JR東海道線で分断され迂回する。昔の道がなくなっている箇所もある。
              
       
     鞭嵜神社  山門は膳所城南大門を移築したもの

         
          内側から見た鞭嵜神社山門。 外から見た時と形が全く違う。

         
           
      近松門左衛門の「冥途の飛脚」のモデル、梅川終焉の地 十王堂のあった場所。
      梅川は大阪新町槌屋の遊女で、大阪淡路町の飛脚亀屋の養子忠兵衛と
     恋仲になり、忠兵衛は梅川の身受けの為、三百両の封印切りの罪を犯す。
     駆け落ちをするが捉えられ、忠兵衛は死罪になる
      梅川は矢橋の十王堂で忠兵衛の菩提を弔い、懺悔の日々を送り83歳で
     亡くなった後、清浄寺に葬られたと伝えられている。

       
     清浄寺と梅川の墓

       
      矢橋港を目指す舟の目印になったであろう大銀杏の木

         
          矢橋港桟橋。現在は埋め立てられて公園になっている

         
          公園脇にある常夜灯 松は枯れている

               
                公園内にある蕪村の句碑

      公園で昼食を済ませ、午後は矢橋帰帆島から大津へ船の旅。


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