白洲正子を魅了した近江を歩く(全7回)

        菅浦葛籠尾崎・須賀神社・鵜川四十八体仏・白髭神社
         
すがうらつづらおざき

       第6回 2019年3月17日
   
      海津、大崎、大浦と竹生島は次第に近づき、この辺へ来ると、人影もまれで
     湖北の中の湖北といった感じがする。特に大浦の入江は、ひきこまれそうに
     静かである。天平宝字八年九月、恵美押勝(藤原仲麿)は、孝謙上皇の軍勢と
     勢田に戦って破れ、湖水を渡って越前へ逃れようとしたが、嵐に会ってこの入江に
     流れ着いた。そこから愛発関(あらちのせき)を越えようとはかったが、朝廷の軍勢に
     待ち伏せされ、決定的な痛手をこうむった。再び(たぶん大浦から)船で高島へ
     引返し、そこで一族全滅したのである。
      菅浦は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾崎という。(中略)
     湖北の中でもまったく人の行かない秘境である。つい最近まで。外部の人とも付合わない
     極端に排他的な部落であったという。
      それには理由があった。菅浦の住人は、淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており
     その誇りと警戒心が、他人をよせつけなかったのである。

                     
白洲正子 「かくれ里」より

       愛発関とは、北陸道に置かれ、越前の国にあったとされる関所。奈良から平安時代
        初期の一時期のみ存在し、その詳細な所在地は明らかになっていない。
                  ウキペディアより引用させていただきました。

     
       
     
      奥びわ湖観光協会 西浅井観光マップ よりいただきました。

                  菅浦  葛籠尾崎・須賀神社

       
      菅浦の西の入口 四足門  村の出入りの検札が行われていたと推測されている。

                 
                   美しい葦葺き

     
      菅浦集落絵図 東と西の入口に上の写真の四足門がある。

       
        小雨の降る中、集落の湖岸沿いを東に抜け、葛籠尾崎までハイキング。

       
        集落の東端 

       
        東の四足門

        
         これより渚に沿って歩く。

        
         見えている岬が葛籠尾崎 

        
         青い屋根の小屋の所から上り。スタートから25分。

        
         急坂を登ること20分。

        
         尾根の分岐 

        
         葛籠尾崎を目指すが、大木がボキリと折れたり、根元から倒れている。

        
         これは酷い! 乗り越えて行くのに難渋した。

        
         一つ乗り越えたかと思ったらまたまた次が。

        
         葛籠尾崎展望所(朝日山)までずーっと倒木が続いている。

        
         12時40分朝日山到着 スタートから1時間40分、尾根の分岐から約1時間。
        枝越しに見えるのは、竹生島。道が荒れていて、時間がかかってしまったので、
        撮影後早々に出発する。

        
         同じコースを分岐まで戻り、奥琵琶湖パークウエイへ。

        
         奥琵琶湖パークウエイは現在(3月17日)閉鎖中。菅浦へ。

        
         

        
         奥琵琶湖パークウエイから見下ろす菅浦の集落。

        
          菅浦集落へ。パークウエイを左へ、林の中に入る。

        
         急坂を下る。

                      須賀神社

      大浦から入りくんだ湖岸の道に沿って行くと、三十分余りで菅浦の部落に着く。
     入口に村の境界の門があり(これは東側にもある)、もうその辺からふつうの村と
     趣がちがう。二百軒たらずの寒村ながら、神社を中心にいくつも寺が並び、
     昔はほとんど村全体が境内だったような印象を受ける。(中略)
      北を山がふさいでいるので、よほど暖かいのか、雪もほとんど降らないと聞いた。
     いよいよ離宮には打ってつけの地形だが、保良の宮跡と伝える場所は、村の北側の
     高地にあり、琵琶湖と竹生島が一望のもとに見渡せる。

      その山の麓、神社の石段の下で、私たちは靴をぬがされた。跣でお詣りをするのが
     しきたりだそうで、たださえ冷たい石の触感は、折しも降りだした時雨にぬれて、
     身のひきしまる思いがする。それはそのまま村人たちの信仰の強さとして、私の
     肌にじかに伝わった。
      本殿には淳仁天皇が祀ってあり、ご神体は神像ということだが、天皇が流されるに
     当たって、「朕イズコニ罷リ寿ヲ果ツルトモ、神霊ハ必ズコレニ止メ置クベシ」という
     御遺言により、近習の子孫が奉じて現在に至った。
      真偽は別にしても(中略)菅浦の信仰を生かして来たのは、廃帝の魂であり、怨霊で
     あった。単なる事大主義や虚栄心で、千数百年もの間、変わらぬ信念を保つことは
     むつかしい。
                  
白洲正子  「かくれ里」より
     
                 
                   西の四足門の近く 須賀神社の鳥居

        
         鳥居をくぐる。

      菅浦には古来「開けずの箱」と称するものがあった。大正のはじめ頃、開いてみると
     二千通あまりの古文書が出て来た。長久
(1040〜1043)以来の領地や訴訟に関する
     記録で、「菅浦文書」として、学界では有名な資料である。
                      
白洲正子  「かくれ里」より
      
      昨年(平成30年)、「菅浦文書」は 国宝 に指定された。 

     
       長浜市ホームページよりいだだきました。

       
        二つ目の鳥居から土足禁止。村の方たちは素足でお詣りされる。
       私たちはスリッパに履き替える。

       
        石段を登る

       
        本殿 淳仁天皇を祀っている。

       
        本殿の裏、淳仁天皇の御陵。周囲は約60間、葺石でかためられた船形。
       
       
         集落の中に淳仁天皇の菩提寺跡という場所がある。

         

      祖神として祀られる人々には、必ず哀れな伝説がつきまとう。淳仁帝も、その例を
     もれず、不幸な生涯を送った天皇である。天平勝宝八年、聖武天皇の崩御とともに、
     平城京に不穏な空気が流れはじめた。(中略)誹謗や讒言が横行し、多くの公卿が
     逮捕されたり左遷されたりした。皇太子も廃され、かわって大炊王が立つ。天武天皇の
     孫で、時に二十五歳、これが後の淳仁天皇である。
      かねてから藤原仲麿(恵美押勝)と親交があり、翌年には孝謙女帝が譲位して、
     仲麿は天皇から、恵美押勝の美称を賜る。が、実権は依然として上皇の側にあり、
     天皇は傀儡に過ぎなかった。道鏡が上皇に近づいたのもその頃のことで、次第に
     押勝の立場も危うくなって行く。

      新しく造った近江の保良の宮で、天皇が上皇と道鏡の間柄をきびしく詰問された
     のは有名な話である。そのことから、事態は急激に悪化した。上皇は怒って、奈良の
     法華寺に籠居し、天皇も近江から平城京に遷御になった。押勝の乱が起こったのは
     それから間もなくのことであった。

      (中略)さしもの権勢を誇った恵美押勝が、近江の高島で壊滅すると同時に、天皇も
     淡路にながされ、「淡路の廃帝」と称されることになる。(中略)
      一方菅浦の言い伝えでは、その淡路は、淡海の誤りで、高島も、湖北の高島で
     あるという。菅浦には須賀神社という社があるが、明治までは保良神社と称し、
     大山咋命と大山祇命が祭神であった。が、ほんとうの祭神は淳仁天皇で、社が建って
     いる所がその御陵ということになっている。
      保良神社といったのも、そこが保良の宮跡だからで、また、葛籠尾崎の名称も、
     帝の遺体を奪って、高島からつづらに入れて運んだことから名付けた、と伝えている。
                    
白洲正子 「かくれ里」より

                 鵜川四十八体仏・白髭神社

          
           白洲正子 「近江山河抄」よりいただきました。

      白髭神社をすぎると、比良山は湖水とすれすれの所までせり出し、打下(うちおろし)
     いう浜に出る。打下は、「比良の嶺おろし」から起こった名称で、神への畏れもあってか、
     漁師はこの辺をさけて通るという。

      そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。
     私が行った時は、ひっそりした山道が、落椿で埋まり、さむざむした風景に花を
     そえていた。入り口には、例によって、古墳の石室があり、苔むした山中に、
     阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観というより他にない。
      四十八体のうち、十三体は日吉神社の墓所に移されているが、野天であるのに
     保存はよく、長年の風雪にいい味わいになっている。この石仏は、天文二十二年に、
     近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の菩提のために造ったと伝えるが、
     寂しい山道を往く旅人には、大きな慰めになったことだろう。
      古墳が墓地に利用されるのはよく見る風景だが、ここは山の上までぎっしり墓が
     並び、阿弥陀如来のイメージも重なって、いよいよ黄泉への道のように見えて来る。
                  
白洲正子 「近江山河抄」より

       
        四十八体仏への入口
      白洲さんは、ひっそりした山道が落椿で埋まり、さむざむした風景に花をそえる
     と言っているが、道が整備され、明るい道が続く。

       


       


       
        四十八体仏の上は山の上まで墓地が続いているが、周りが切り開かれて
       いるので、明るい墓地という感じ。黄泉の国への道 というイメージには遠い。

       
        四十八体仏からの帰り道、虹が出ていた。今日の天気は変化に富んでいて
       雨が降ったり、霰が降ったり、晴れたり、雷はならなかったけどフルコースを
       満喫した。

                       白髭神社

      白髭神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が建ち、鳥居は湖水の中にはみ出て
     しまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんなゆったりした趣はここには
     ない。が、それははみ出たわけではなく、祭神がどこか遠くの、海のかなたから
     来たことの記憶を止めているのではあるまいか。信仰の形というものは、その
     内容を失って、形骸と化した後も生き続ける。
                  
白洲正子 「近江山河抄」より
      

       
        白髭神社の鳥居 小さい方は湖の中に立っている。

       
         白髭神社本殿

       
        本殿上の三つの社殿

       
        磐座らしき岩と祠

       

      この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。
     祭神は猿田彦神ということだが、上の方には社殿が三つあって、その背後に、
     大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まではってあるのは、ここが白髭の
     祖先の墳墓に違いない。(後略)
      山上には磐座らしいものも見え、あきらかに神体山の様相を呈しているが、
     それについては何一つわかっていない。古い神社であるのに、式内社でもなく、「白髭」
     の名からして謎めいている。猿田彦命は、比良明神の化身ともいわれるが、
     神様同士も交りあうので、信用はおけない。
      
      白髭神社の建つ岬を、「権現崎」と呼ぶが、その北には安曇川の三角州がつき出て
     おり、古くは安曇族の根拠地であった。彼らがどこから来たか不明だが、漁業に
     たずさわる特殊な集団で、越前の方から流れついた外来民族ではないかといわれて
     いる。(後略)
      (前略)越前と朝鮮との距離は、歴史的にも地理的にも、私たちが想像する以上に 
     近いのである。太古の昔に流れついた人々が、明るい太陽を求めて南へ下り、
     近江に辿りつくまでには長い年月を要したと思うが、はじめて琵琶湖を発見した時の
     彼らの喜びと驚きを想像せずにはいられない。竹生島には、雄島の俤を見たで
     あろうし。明神崎に故郷の海浜を思い浮かべたかもしれない。
      そこに彼らの神を祀ったとしても、私には不自然とは思えない。
                  
白洲正子 「近江山河抄」より
     

      今回の湖北の旅は、菅浦という不思議な魅力のある集落、太古のロマンを
     感じる白髭神社を巡ることができ、大変楽しいものになった。
      
             次回(最終回)は 石道寺・渡岸寺・孤篷庵・居醒の清水


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