白洲正子を魅了した近江を歩く(全7回) 石塔寺・大池寺・油日神社・櫟野寺 第1回 2018年10月26日 ![]() 今回訪ねた場所黒丸で囲っている 上から石塔寺、大池寺、櫟野寺、油日神社 石塔寺(いしどうじ) 石塔寺へ最初にいったのは、ずいぶん前のことだが、あの端正な白鳳の塔を 見て、私は初めて石の美しさを知った。朝鮮にも、似たような塔はあるが、 味といい、姿といい、これは日本のものとしかいいようがなく、歴史や風土が人間に 及ぼす影響を今さらのように痛感した。 白洲正子 「かくれ里」より 石塔寺詳細については こちらから ご覧ください。 石塔寺の縁起は今回省略しました。 ![]() 阿育王塔(あしょかおうとう) 重要文化財 ![]() 急な石段を登って行くとパアーっと視界が開け、上の写真 阿育王塔が すっくと立っている。 ![]() 夥しい数の石塔 ![]() ![]() いつの時代のものだろうか。 ![]() ![]() ![]() 山門と本堂 ![]() 駐車場に咲いていた黄色コスモス 大池寺 大池寺は、天平14年(742)、諸国行脚の高僧、行基菩薩がこの地(甲賀市 水口町名坂)を訪れた際、日照りに悩む農民のため、灌漑用水として「心」という 字の形に四つの池を掘り、その中央に寺を建立し、一彫りごとに三拝したという 「一刀三礼の釈迦丈六座像」を安置したと伝承されています。 七堂伽藍の備わった寺院「邯鄲山青蓮寺」といいました。 天正5年(1577)に戦国の兵火に遭い、境内全域が焼失しました。 不思議にも行基菩薩の作なる仏像のみが焼け残り、その後約90年間草庵に 安置されていましたが、風雨にさらされた状態でした。 寛文7年(1667)京都花園妙心寺の丈巌慈航禅師が当地を訪れた際、 草庵の仏像を見て寺の再興を決意、「龍護山大池寺」と改名しました。 大池寺 パンフレットより ![]() 心という字を形成する 四つの池 ![]() 大池寺本堂 ![]() 一刀三礼の釈迦丈六座像 ![]() 小堀遠州作と伝えられている庭園 油日(あぶらひ)神社 十年ちかくになるだろうか(略)、京都の博物館で古面の展覧会があったとき、 「福太夫」と名づける非常に美しい面を見た。油日神社蔵と記してあった。(中略) (国鉄”現JR”草津線の小駅)油日駅前の通りを南へ少し行くと、大きな石の 鳥居が現れる。まわりは見渡すかぎり肥沃な田畑で、鈴鹿の山麓に、こんな 豊かな平野が展けているとは、今まで思ってみもしなかった。南側の、鈴鹿 山脈のつづきには、田圃をへだてて油日岳が、堂々とした姿を見せている。 白洲正子 「かくれ里」より 「かくれ里」は1971年(47年前)に書かれている。そのため、現在とは 違うところもあります。 ![]() 正面は油日岳 太古(略)、油日岳の頂上に、ある日、盛んな火が燃えた。「一大光明を発す」と 由来記は記している。その時、「岳大(たけの)明神」が光臨し、以来、近江の側からも 伊勢の側からも、神体山として崇められてきた。 今ある神社は、里宮で、他の神社でもそうであるように、だんだん麓へ下りてきた のである。頂上には、現在でも奥宮があり、毎年八月十一日の夜には、油日谷七郷 の氏子たちによって、「御生(みあれ)祭」が行われるという。 白洲正子 「かくれ里」より ![]() 油日神社参道から油日岳を望む ![]() 楼門 ![]() 楼門と回廊 油日谷七郷の氏子たちで、今では珍しい「宮座」というものが、この周辺の 村には残っている。宮座というのは、信仰を中心にした氏子の集団で、 むろん祭事を主にするが、その他の日常生活でも結束がかたく、家筋や席順など、 なかなかきびしいもののようである。(中略) 楼門や本殿は、室町時代の建築で、周囲に清らかな回廊がめぐっており 祭の時には、ここに宮座の連中が居並ぶという。 白洲正子 「かくれ里」より ![]() ![]() 「田作福太夫神ノ面」 ずずいこ様 いずれも 永正五年(1508)六月十八日 桜宮聖出雲作 の墨書がある。 白洲正子さん絶賛の古面とずずいこ様。 神事で使われていたようだが、残念なことに明治の末頃絶えてしまったという。 写真は油日神社ホームページよりいただきました。 櫟野寺(らくやじ) 櫟野寺はイチイノデラともラクヤジともいう。その名に背かず、境内には、樹齢千年 と称する櫟がそびえ、そのかたわらに、見たこともないような大木の槙も立っている。 案内を乞うと、いかにもこういう寺にふさわしい朴訥なお坊さんが現れ、宝物殿の扉を 開いてくださった。最近まで大きな本堂があったらしいが、火災のために失われ、 さいわい仏像は新しい宝物殿に移してあったので助かりました、申しわけないことですと、 坊さんはしきりに恐縮される。(略) 焼跡には、礎石の間に残骸がちらばって、むざんな有様だが、いい加減な本堂が あるより、こういう山寺には、立派な櫟の木があれば十分だと思う。 白洲正子 「かくれ里」より ![]() 櫟野寺本堂 白洲正子さんが訪れた頃は焼失していた本堂は再建されている 櫟野寺は、滋賀県東南部、忍者や信楽焼などで知られる甲賀市にあります。 この地で「いちいの観音さん」として親しまれてきました。 奈良時代の一時期には、聖武天皇が離宮の「紫香楽の宮」を営み、大仏造立 を発願したこともありました。 延暦11年(792)、比叡山延暦寺の開祖・伝教大師最澄が根本中堂建立の 用材を求めて甲賀を訪れた際、櫟の巨木に霊夢を感じて、その立木に現在の 本尊である十一面観音像を刻んだのが始まりと伝わっています。 西日本旅客鉄道株式会社 発行 いちいの観音 櫟野寺 パンフレットより ![]() ご本尊は秘仏で33年に一度しか拝観できなかった。白洲正子さんも 拝観できなかった十一面観音は、近年、春・秋などに特別拝観期間が 設けられるようになった。今年は本来の大開帳の年だった。 ![]() 山門までお地蔵様が並ぶ。 ![]() ![]() 山門の仁王様 ![]() 再建された本堂 白洲正子さんが見た樹齢千年の櫟の木も、見たこともないような槙の大木も 境内になかった。 ![]() ご本尊 十一面観音菩薩座像 写真は いちいの観音 櫟野寺パンフレットより 頭と体を一本の木から彫り出す「一木造り」で、重要文化財の十一面観音菩薩 坐像としては日本最大。 白洲正子さんが拝観できなかったご本尊を私は拝観できた。 本堂に続くお堂「大悲閣」は宝物殿になっていて、ご本尊を含め20体もの 平安仏が安置されていた。 次回は 奥石神社・教林坊・観音正寺・桑実寺 白洲正子を魅了した近江へ 戻る ウオーキングへ 戻る TOPへ 戻る |