白洲正子を魅了した近江を歩く(全7回)

            石道寺・渡岸寺・弧篷庵・居醒の清水
           
  しゃくどうじ どがんじ    こほうあん  いざめ

      第7回(最終回) 2019年4月14日 曇り後雨

      
       石道寺、渡岸寺、弧篷庵の地図

                     醒ケ井宿 居醒の清水
                     さめがい  いざめ

           

           
            手作り感あふれる 地蔵さん

      景行43年、諸国を平定した日本武尊は、尾張の宮簀姫(みやずひめ)のもとで疲れを
     休めたが、近江の五十葺山に、荒ぶる神がいると聞き、草薙の剣を宮簀姫にあずけて
     退治しにでかけた。この剣をおいたというところが大事で、再び帰ることの約束を意味
     するとともに、魂を身につけていなかったために、命を落とすはめになった。

      伊吹山の麓に至った時、山の神が大蛇に化けて現れた。が、尊はそれを神の使と
     見まちがい、まったく無視して、またいで行ってしまう。やがて、山中にわけ行った尊は
     山の神が吹きつける雲と氷雨に悩まされ、深い霧にまかれて、現し心を失い、やっとの
     思いで山下の泉のほとりへ辿りつく。その霊泉で、喉を潤した尊は、正気を取り戻し、
     よって「其の泉をなづけて居醒井
(いさめがい)と曰ふ」とある。(日本書紀)
      (
醒ヶ井の地名の由来か。)
      『古事記』では、「居寝の清水」と呼び、大蛇も白猪になっているが、ともに伊吹山に
     住む原住民族を象徴したものに違いない。山頂からは、石器が多く出土しており、
     毒草をぬった石矢が、氷雨となって降りかかったのであろう。
                  
白洲正子 「近江山河抄」より

           
             神社の石垣の下から湧き出ている 居醒の清水

      現在、その清水は、醒ヶ井の町中の、神社の前を流れているが、ここも名神高速道路に
     分断されて見る影もない。だが、清冽な泉は滾滾(こんこん)と湧き出ており、せせこましい
     神社の後ろには、道路をへだてて神体山らしいものも望める。

      「居寝の清水」と称する所は他にもいくつかあって、どれが本物だか知る由もないが、
     このあたりを領した息長
(おきなが)氏の祖先には、水依媛という人物がおり、
     水が豊富な伊吹山の周辺に、多くの水神が祀られたのも不思議ではない。

      が、日本武尊が中山道の醒ヶ井から伊勢へ向かったとすると、大分回り道になる。
     もしかすると、息長氏に助けられたのが、そのような伝説となって残ったのではあるまいか。
     尊の妃の一人は息長氏で、その一族が祀った水神と結びついたとも考えられる。
                  
白洲正子 「近江山河抄」より

       
        湧きだし口

       
        醒ヶ井宿の街道に沿って流れる(地蔵川)

             

       
        地蔵川に沿って満開の桜並木が続く。

            
             初夏には清流にしか咲かない梅花藻の花が咲く。

       

       
        問屋場(といやば)

      問屋場 江戸時代、街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行う所で
       駅亭、伝馬所、馬締ともいった。
        現存しているのは、甲州街道の府中宿と中山道奈良井宿、それと当地醒ヶ井宿
       のみである。
        助郷 人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のこと。
               
ウキペディアより抜粋させていただきました。

       
        問屋場の内部

                      石道寺(しゃくどうじ)

      神亀3年(726)延法上人が開基され、延暦23年(804)伝教大師によって
     再興、本尊の十一面観音を祀り、己高山石道寺と命名し比叡山の別院として
     大いに栄えたと伝えられています。
      戦国時代には、信長の兵火により全焼しましたが、仏像は守られ、関ケ原の
     戦も終わった1605年には再興し、明治の中頃まで名刹の一つとして重きを
     なしてきました。
      明治27年、仁王門が焼失、29年には洪水で庫裏が流されて無住となりました。
     現在のお堂は、大正3年に旧石道寺の本堂を、里人の手により現在地に移築し、
     その時より今日まで、里のひとにより守り続けられています。
              
      石道寺 パンフレットより

       
         石道の集落に着く頃から雨が降りだす。

      先日も湖北の石道寺という寺で、美しい十一面さんにお目にかかった。
     伊吹連峰のつづきの己高山(こたかみやま)の麓、石道の集落から少し登った谷間にある。
     無住の寺なので、あらかじめお願いしておくと、農家のおばさんが案内してくれた。(中略)

      お寺は桜並木の参道を登ったところに、ひそやかに建っていた。昔はもっと奥の谷に
     あったのを、洪水で寺が流され、麓へ降ろしたと話してくれる。お寺に辿りつくと、そこにも
     四、五人待っており、一緒に本堂の中に入る。厨子の扉が開かれ、私たちが拝観している
     間、ふと気がつくと、みな後ろの方にかしこまって、お念仏を唱えている。(中略)
      そんな人たちの目前で、ゆっくり「鑑賞」なんかできるものではない。拝観はそこそこに、
     私も一緒に座ってしばらく拝んでいた。
                     
白洲正子 「近江山河抄」より

       
        己高山が雨に霞む。

       
        石道寺本堂

            
      石道寺十一面観音立像 平安中期  重要文化財 石道寺パンフレットよりいただきました。

      一木造り等身大の藤原彫刻は、まことに古様で、美しい。微笑をふくんだお顔も
     さることながら、ゆるやかに流れる朱の裳裾の下から、ほんの少し右の親指を反らし
     気味に、一歩踏み出そうとする足の動きは魅力がある。法華寺や室生寺の十一面観音も
     同じように親指をそらしているが、多くの人の心をとらえるのは、あの爪先の微妙な
     表現にあるのではないか。それは渡岸寺のやや重々しい貞観彫刻から、日本的な
     表現に移って行く動きでもあり、衆生の方へ、一歩近づいたことを示している。
                    
白洲正子 「近江山河抄」より
     
       

       
         
       
         ソメイヨシノ、シダレザクラ、ハクモクレンの花が満開。

      木之本の鯖寿司を食べさせてくれる有名な寿司屋さんで昼食。
     お土産に鯖寿司を買って、渡岸寺へ向かう。

      高時川の堤防の桜が満開。町中の桜も、季節の移り変わりを教えてくれるし
     春の喜びを感じることができるが、なんといっても自然の中の桜はいい。
      ここの桜は美しい。花の下で宴会をする人も少ないと思うし、もちろん提灯も
     下がっていない。来年はこの桜の下を歩いてみたい。何キロも続いているの
     ではなかろうか。

     
      
       
        バスの中から  高時川と桜並木


                  渡岸寺観音堂(向源寺)
                
どがんじかんのんどう

   
  聖武天皇の天平8年、都に疱瘡が大流行し、死者が相次いだので、天皇は
     除災の祈祷を僧泰澄に勅せられました。泰澄は勅を奉じ、祈願をこめて
     十一面観音を彫み、一宇を建立し息災延命、万民農楽の祈祷をこらして、
     その憂いを絶ったと伝えられています。
      桓武天皇の延暦20年には、比叡山の僧最澄が勅を奉じて、七堂伽藍を建立し、
     多くの仏像を安置しました。

      元亀元年、浅井長政と織田信長の戦いにより堂宇はことごとく焼失しました。
     住職巧円をはじめ土地の住民たちは、観音様を猛火を冒して搬出しましたが、
     お守りするお堂もなく、土中に埋蔵して難をまぬがれたといわれます。

      その後、巧円は真宗に転宗し、向源寺を建て諸仏は秘仏としてお守りして
     きました。
                     
渡岸寺パンフレットより

       
        渡岸寺山門

       
        本堂
      
       
        十一面観音を埋めてお守りしたという場所。

             

             
      渡岸寺十一面観音 国宝 平安時代前期  渡岸寺発行 写真集よりいただきました。

      近江に十一面観音が多いことは、鈴鹿を歩いた時にも気がついたが、特に
     伊吹山から湖北にかけては、名作がたくさん残っている。中でも渡岸寺の
     十一面観音は、貞観時代のひときわ優れた檀像で、それについては多くの方が
     書いていられる。こういう観音に共通しているのは、村の人々によって丁重に
     祀られていることで、彼らの努力によって、最近渡岸寺には収蔵庫も出来た。

      が、私がはじめて行った時は、ささやかなお堂の中に安置されており、索漠と
     した湖北の風景の中で、思いもかけず美しい観音に接した時は、ほんとうに
     仏にまみえるという心地がした。ことに美しいと思ったのはその後ろ姿で、
     流れるような衣文のひだをなびかせつつ、わずかに腰をひねって歩き出そうと
     する動きには、何ともいえぬ魅力がある。
              
       白洲正子 「近江山河抄」より

      私は信仰心も薄く、仏像や美術にかんしても知識がないのだが、控えめな
     照明の収蔵庫に入ると一瞬釘づけになった。
      白洲正子さんは、「ゆらめくような容姿には、一種神秘的な媚しさがただよう」
     と表現されている。
      観音様の説明をして下さった方に、「観音様は女性ですか?」と愚かしい質問を
     してしまった。
      「女性でも男性でもありません。けれど、作者は女性をイメージして彫ったのかも
     しれませんね」とおっしゃった。
      「あらゆる時代の十一面観音に共通するこの魅力、それがもっとも厳しく、
     かつ男性的な山岳仏教に生まれたことは興味深い」と白洲さんは書いておられる。


                     近江弧篷庵
                 
   おうみこほうあん
     
 
     
 近江弧篷庵は禅臨済宗大徳寺派に属し、京都弧篷庵と同じく円恵霊通禅師
     (江雲和尚)を開山とし、2代政之侯が、遠州侯及び小堀家、家老家臣等の修禅および
     菩提道場として承応2年(1653)、今の墓地の北西奥の平地に建立し、3代政房侯の
     時、宝永6年(1709)に性宗紹宙和尚が現在の地に移築した。

      ところが、江戸後期、天明8年(1788)小堀政方侯の時に、悲惨な改易となって
     寺も衰退の一途を辿った。
      昭和13年(1938)定泰和尚が住持となって寺院再興をはかり、徐々に整備されるに
     いたった。
                           
近江弧篷庵 パンフレットより

            
      
   素戔嗚命神社の参道を歩いて、弧篷庵に向かう

         

       小堀家歴代の墓地が見えて来た

       
        墓地の中を通って行く

       
        墓地から里を見下ろす。  小谷山の東側、奥まった所にある 
       かくれ里 と呼ぶにふさわしい静かな里の風景。

               
               寒さが厳しいのか、ショウジョウバカマがまだ咲いている

       
        山門

       
        山門から

       
         弧篷庵

       
        本堂北東 『池泉回遊』庭園

       
        本堂南西 『枯山水』庭園 苔は海を表している

       
        『枯山水』の奥 五老峰、舟石

       
        貝多羅葉樹(かいたらようき) はがきの木


      2018年10月から2019年4月まで7回にわたって近江を歩いてきた。
      第1回から7回まで同じ案内人が同行して下さり、参加者もほぼ同じ顔ぶれで
     親しくなった。旅の情報、写真の話等々話が弾み、毎回参加するのが楽しみだった。

      第1回の油日神社の面、櫟野寺の十一面観音。
     第2回は紅葉の教林坊と桑実寺、第3回は前から行きたかった石馬寺と瓦屋寺へ
     第4回は藤尾摩崖仏、第5回は雪の長命寺、第6回は倒木に難渋した葛籠尾崎
     ハイキング、第7回は湖北の桜と十一面観音が特に印象に残った。
      
      
            白洲正子を魅了した近江を巡るへ 戻る

                  ウオーキングへ  戻る