京福電鉄「嵐電」沿線ぶら散歩

               四条大宮から太秦広隆寺まで

      2017年10月12日(木)

      
          嵐電エリアマップ より  〇で囲んだ所に寄る

      四条大宮駅前10時集合、光縁寺、新選組屯所跡、壬生寺、西院(高山寺こうさんじ
     を経て西院春日神社まで。

      

      山王神社参拝後 昼食。木嶋神社(蚕の社)を経て終点太秦広隆寺へ。

         
      四条大宮駅から南へ少し下がって右折、綾小路通に入ると高縁寺がある。

      浄土宗の寺で知恩院の末寺。門前近くには新選組の馬小屋があり、毎日
     隊士達が門前を往来していた。中には新選組副隊長の山南敬介もいた。
      当時の住職は22世の良誉上人であったが、年齢も山南と同じであった。
     やがて二人の間には親交が生まれて、山南の紹介で屯所で切腹した隊士達や
     山南自身、またその後の多くの隊士が良誉上人に弔われ、埋葬されることに
     なった。

      私たちは外から参拝。

       
     新選組屯所(旧前川邸)

      個人の住居なので公開はされていません。
      現在も、当時の姿をほぼとどめるといわれています。隊士達が増えてきて
     八木邸が手狭になったことから、この場所も屯所にしたようです。
     近藤勇や土方歳三ら幹部は、こちらにいたといわれています。
      山南敬介、野口健司が切腹した部屋や、古高俊太郎を拷問にかけたという
     地下室、当時の落書きが残る雨戸などがあります。


      
新選組屯所から北へ。嵐電の線路を渡った所に元祇園梛(なぎ)神社がある。
          
        
         元祇園梛(なぎ)神社
          
      スサノオノミコトほかを祀り疫病除けの神で知られる。貞観年間、京の悪疫退治の
     ため祭神を東山八坂に祀る前、いったんこの地の梛の森に神霊を仮祭祀したのが
     起こり。このため元祇園とも。祇園祭傘鉾の起こりも同社の祭祀に由来するという。
      5月第3日曜日は氏神祭で、祭事の後神霊を鳳れん(ほうれん、子供神輿)に
     移し、北・三条通、南・松原通、東・壬生通、西・土居の内通に囲まれた氏子社中を
     巡行する。特に少年勤王隊、獅子、鉾、花傘などの祭列は見もの。


        
         
梛神社の梛の実

      梛神社を後にして元来た道を戻る。新選組屯所(八木邸)へ。

        


        
         新選組発祥の地 壬生屯所旧跡(八木家)
      

      八木家は壬生村きっての旧家で、かつて壬生郷士の長老を務めていた。また、幕末には
     新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり旧壬生屯所として知られている。



                       壬生寺

      壬生寺は律宗の寺院で、本尊として地蔵菩薩立像(重要文化財)を安置している。
      寺伝では、正暦2年(991)三井寺の快賢僧都により創建され、小三井寺と呼ばれて
     いた。その後、火災により堂宇を焼失したが、正元元年(1259)平政平により再興され
     さらに正安2年(1300)円覚上人が、仏の教えを身振り手振りの無言劇に仕組んだ
     壬生大念仏狂言を創始し栄えた。
      新選組ゆかりの寺でもあり、境内の壬生塚には新選組隊士の墓塔が祀られている。

       


         


         
            新選組隊士の墓塔がまつられている壬生塚のある建物


        
      嵐電西院(さい)駅の側の車庫。いろんな色や絵を描いた電車。
      嵐電西院(さい)駅と隣り合って阪急西院(さいいん)駅。同じ字なのに読み方が違う。
     不思議?

                     高山寺(こうさんじ)賽の河原

      開基は善西。時期は不詳。本尊は子安地蔵と呼ばれ、安産地蔵として信仰を
     集めた。足利義政夫人日野富子もここで祈願し、義尚を生んだという。また、地名の
     西院(さい)が賽の河原の賽に通じるため。


         

  
         
          子どもを救う地蔵として信仰は厚い。


                     西院春日大社

      天長10年(833)2月28日、淳和天皇が仁明天皇に位をお譲りになり淳和院(西院)に
     御移りになった時、奈良の春日四座大神を勧請し守護神とされたのが始まりです。


         


         
          本殿

         
          能舞台


       
     夫婦和合、安産、子授けにご利益があるという山王神社に参拝し、西高瀬川沿いに
    歩いて昼食場所へ急ぐ。


               木島坐天照御魂神社(蚕の社)

      秦氏とのつながりが深く養蚕、機織、染色技術の中心地として境内に摂社養蚕神社が
     あり、それが俗称の由来。製糸業者の信仰がいまもある。
      境内の池中に、明神鳥居を三つ組み合わせた珍しい石鳥居(三柱鳥居)がある。
      建立 推古天皇の時代頃。

       
        
蚕の社

        
      大変珍しいという三柱鳥居、高い場所から。 下から写したもの。


                    大酒神社

      古墳時代 356年、伝承として秦始皇帝子孫という功満王が戦乱を避け日本に
     渡来し、始皇帝の神霊を勧請したことに始まるという。大避(おおさけ)神より、災難除け
     悪疫退散の信仰が生まれたという。
      372年、功満王の子・弓月王(ゆずきのおう)は、百済より127県の民18670人と共に
     渡来し、金銀玉はくなどの宝物を朝廷に献上したという。
      弓月王の孫・秦酒公(はたのさけのきみ)は、秦氏諸族を統率し、養蚕を広め、
     絹綾織などを織り朝廷に献上した。
      祭神は本殿に、秦氏に関わるという秦始皇帝、弓月王、秦酒公を祀る。別殿に
     呉織神(くれはとりのかみ)、呉織女(くれはとりめ)、兄媛命(えひめのみこと)、
     弟媛命(おとひめのみこと)、漢織神(あやはどりのかみ)、漢織女(あやはとりめ)を
     祀る。

          

           大酒神社

                       広隆寺

      広隆寺は603年(推古天皇11年)、秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として
     建立した京都最古の寺。
      その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像。10月の「牛祭」は、京都三大奇祭の一つ。

          
            楼門

          
            講堂

          
      このお堂の奥に新霊宝殿がある。そこには国宝 弥勒菩薩半跏思惟像 ほか
     広隆寺の仏像が集められている。仏の前でじっくり自分と向き合っていたいと思うが
     団体行動なので我儘は許されない。

      広隆寺から嵐電に乗り、四条大宮駅まで戻り解散する。
      今日は、新選組と関わりのある壬生を歩いて太秦へ。太秦の秦氏と関係深い神社や寺院を
     巡った。養蚕や機織りの発祥の地であることなどを知り、楽しいウオーキングだった。


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