阿育王山 石塔寺
                    あしょかおうざん  いしどうじ

                                   2016年7月29日

      
       阿育王塔(重要文化財)
       あしょかおうとう

      今年の3月から毎月1回鯖街道ウオーキングに参加している(全6回)。
     8月で最終回を迎えるが、5回も参加していると参加者も顔見知りが多くなってくる。
     4回目と5回目に同じ方とバス席が隣同士になった。お喋りをしているうちに同じ滋賀県に
     住んでいることがわかった。
      彼女は私がよく登っている三上山に登りたいと思っていたらしい。私は彼女の住まいの
     近くにある石塔寺に前から行ってみたいと思っていた。じゃ、お互い案内をしませんか?
     と話しがまとまり、三上山に登ってから続いて石塔寺へ行くことにした。

       
      
      石塔寺は東近江市(旧蒲生町)石塔町にある天台宗のお寺で、阿育王山 石塔寺
     
という。
      石塔寺は、聖徳太子創建の伝承を持つ寺院である。伝承によれば、聖徳太子は
     近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で本願成就寺と称したという。

       
      桔梗の花が咲く参道。石灯篭のそばの建物が参拝受付所。 本堂は受付所から右へ。

      
       本堂は後で参拝することにして、まずは山上の石仏、石塔群を先に訪ねる。
      長くて急な石段が空に向かって伸びているように見える。

         
          石段の左側にはずっと石塔が並ぶ

         
          石段の上から見下ろす

      
       石段を登り切るとパアーッと視界が開け、特徴的な石塔 阿育王塔 が現れる。

      この阿育王塔については次のような伝承がある。平安時代の長保3(1003)年に
     唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中、五台山の僧から次のような
     話を聞いた。

      「昔インドの阿育王が、仏教隆盛を願って三千世界に撒布した八万四千基の仏舎利塔
     の内、二基が日本に飛来しており、一基は琵琶湖の湖中に沈み、一基は近江国渡来山
     の土中にある。」と。

      寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。3年後の寛弘3(1006)年、
     播州明石の僧・義観僧都がこの手紙を入手し一条天皇に上奏した。一条天皇の勅命に
     より塔の探索を行ったところ、武士の野谷光盛なる者が石塔寺の裏山に大きな塚を
     発見した。野谷光盛と天皇の勅使平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。
      一条天皇は大変喜び七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号した。
     寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め八十余坊の大伽藍を築いたという。

      阿育王塔は実際には奈良時代前期頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立された
     というのが通説である。
      日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式を持つものであり、
     朝鮮半島の古代の石造物に類似している。

       以上青字部分は 石塔寺パンフレットとwikipediaから引用させていただきました。
        

              
           石塔寺パンフレットより

       
        広い山上におびただしい数の石塔や石仏が

     
      形の美しい石塔

      
       まだまだある、とても写真では伝えきれない。

               
        高さ 7.5m。一段目の石は2つ、足のようであり人の姿に見えてくる。

        
         鐘楼の中から見た石塔群

      
       本堂へ

       
        本堂  ご本尊は聖観世音菩薩(秘仏)

                

         石塔寺万燈祭が8月21日(日)に行われる。幻想的な風景が見られることだろう。


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